2018年平昌オリンピックで、羽生結弦選手が見事に金メダルを獲得しました!
日本国民全員、いや、世界中がその流れるようなスケーティングに釘付けになったことでしょう。
何のスケートの知識もない私にも、その異次元的とも言えるほどの「一流の滑り」に魂を奪われる思いがしました。
ぎこちなさがまったく感じられないスケーティング、ジャンプの歯切れのよさ、そしてなによりその万人が惹きつけられる表情の作り方、そのすべてが完璧でした。
世界中の羽生選手の女性ファン(「ユヅ女子」というらしいw)もすでに目がハートになっていることでしょうね!
さて、今回はその陰の立役者!専属コーチ「ブライアン・オーサー氏」にスポットを当ててみます!
目次
羽生結弦の専属コーチ「ブライアン・オーサー」
こちらの写真の左側に写っているのが、羽生選手の2連覇に大きく貢献した専属コーチ『ブライアン・オーサー』。
初めて見る方も多いかと思いますが、この方と羽生選手の『絆』が今回の金メダルを生んだわけです。
写真からみると、いかにもコワモテな厳しいコーチのような気がしますが、実は・・
金・銀・銅メダリストの、羽生結弦、宇野昌磨、バビエル・フェルナンデス(スペイン代表)の3人が健闘を称えあっている中、そのシーンを自身の携帯電話で「パシャリ!」するような、とってもお茶目な方です。笑
ちなみに余談ですが、この銅メダルの「バビエル・フェルナンデス」は安藤美姫の元カレで一時期世間を賑わしたかたですねw
さて今回はこの「ブライアン・オーサー」と羽生結弦との絆エピソードをセレクト!
ブライアン・オーサーの経歴
選手時代のブライアン・オーサー
簡単にブライアン・オーサーの経歴についてお話します。
カナダ出身の男子フィギュアスケート選手だった彼は、1984年の「サラエボオリンピック」で銀メダル。さらに4年後の1988年「カルガリーオリンピック」でも堂々の銀メダルを収めています。
オリンピックでは1位に恵まれることはありませんでしたが、1987年の世界選手権では優勝を収めています。
「ミスタートリプルアクセル」の愛称を持つ、実力を兼ね備えた華やかなスケート選手でした。
選手引退後のブライアン・オーサー
選手引退後は、振付師として活動を重ねます。日本では本田武史の振付も担当しました。
その後、韓国女子フィギュアのスター「キム・ヨナ」のコーチを務めます。当時精神的にも弱かったキム・ヨナを世界で戦える選手にまで成長させたのは、まさにオーサー氏の選手を導く力が素晴らしかったと賞賛されています。
そしてキム・ヨナと別れた2年後の2012年、ついにオーサー氏は羽生選手と出会うのです。
ブライアン・オーサーと羽生結弦とのエピソード
羽生選手からオーナー氏へ異例のオファー
2012年に、当時17歳の羽生選手からオーサー氏へ「あいたい」という連絡がいきました。
ただこのオファーはまさに異例といえるものでした。
なぜなら当時オーサー氏はバビエル・フェルナンデス(平昌五輪銅メダル・安藤美姫元カレ)のコーチを務めていたからです。
2年後にソチオリンピックを控えている状況で、ライバルのコーチに「指導してくれ!」というわけですから、それはもうオーサー氏からしても「?」なわけですよ。
そのために、オーナー氏は真意を探るべく羽生選手のいる日本へ。そこで待っていたのは、こんな言葉でした。
「トロントへ行って、ブライアンと一緒に練習がしたい。」
今でもオーサー氏は、「ユヅルの、スケートへの愛が、それを見る観客すべてを魅了する」と話しています。
スケートが好きで、自身のスケートのためなら常識の壁をも打ち破る「羽生選手の心」に、オーサー氏も胸打たれた瞬間でしたでしょうね。
その年の5月には、オーサー氏とトロントで羽生選手と練習する日々が始まりました。
チーム・ブライアン
トロントで羽生選手を待ち受けていたのは、「チーム・ブライアン」の指導でした。
ブライアン・オーサー氏の指導方針として、選手一人ひとりとマンツーマンでのレッスンはしないと決められています。
そこで登場するのが「チーム・ブライアン」。
各分野のスペシャリストで構成された指導プログラムなのです。
そこで羽生選手が仕込まれたのが、徹底的な「基礎トレーニング」でした。
ソチオリンピックを2年後に控える中、本来「4回転サルコウ」のジャンプ指導を望んで日本からはるばる来た羽生選手でしたが、そこで与えられたのは何と「徹底した基礎の反復指導」だったのです。
相当面食らったはずですが、そこを羽生選手は受け入れました。
「僕はこの反復練習をします。時間をかけて取り組みます。」
そのようにすぐに納得したそうです。ここがまず羽生選手の素晴らしいところですよね。
どこまでのひたむきなスケートへの信念がそう答えさせたに違いありません。
この基礎の反復トレーニングにより、喘息もちであった羽生選手も、無駄な有酸素運動がなくなり、スケーティング自体に余力がもてるようになりました。
羽生結弦の実力の覚醒
「チーム・ブライアン」でのトレーニングを続けた結果、なんと2013年のGPファイナルでは自己ベストを更新する「293.25点」を叩き出し、王者パトリック・チャンをくだして見事に初優勝を勝ち取ります。
「普段通りのスケートをしてれば、必ず勝てる」。そう実感しているはずと、当時の羽生選手を振り返ってオーサー氏は話していました。
そしてその後の2014年ソチオリンピックでは、ショートプログラム「パリの散歩道」でなんと「101.45点」という史上初の100点超えを果たしたのです!
この発表があった瞬間、オーサー氏も文字通り飛び上がって喜びを共有しました。
日本男子フィギュアスケート初の金メダルを獲得して歴史的瞬間でした。
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オーサー氏が知っている羽生選手の素顔
第一印象は「内気な少年」
一番初めに感じたのは「内気な少年」というイメージだったようですね。
確かに、あまり多言しないクールなイメージがあります。
ただスケートに対する愛情は並々ならぬものを感じとったようです。
「No」といえない日本人
羽生選手は非常に優しい青年のようで、ソチオリンピック後の取り囲みは大変なものでした。様々な方が羽生選手と関わり合いを持とうとし、そのすべてに対応しようとしていた羽生選手。
その姿をみてオーサー氏は「ノー」といえるようにならないといけない。と指導したそうです。平昌オリンピックで勝つには、ときとして「ノー」といって自分の時間を大切にしなさいとね。
オーサー氏の愛の指導はプライベートにも渡っていたようです。
ユヅルの「Yeah」は信用できない
羽生選手の英語での口癖は「Yeah(分かったよ)」ということですが、オーサー氏に言わせればこれがまた全く信用ができない。
というか、その場をごまかすために羽生選手も使っていたようなんですね。
これだけ聞くと「あ、羽生選手も同じ人間なんだ。」って少し安心してしまいますが。笑
そのため羽生選手が「Yeah」と言ったら、オーサー氏は必ずすぐに話し合いの場を設けるようにしていたそうですよ。
まとめ
羽生結弦選手のスケーティングの美しさや確固とした実力は、日本人であれば誰でも知っています。
しかし実は、そこの陰には支えている、かけがえのない人物の存在があります。
スケートに関する適切な技術指導から、真面目な心を解きほぐす心遣いに至るまで、オーサー氏の指導もまた一流といえるわけです。
これからもこの名コンビで様々な記録を樹立していってくれることに期待しましょう!
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